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*陽子*
 彼女は、愛情と云う水を遣らないと枯れてしまう花のような女の子だった。

 あたしの家は当時、ごちゃごちゃに荒れていて、あたしが男の子を何日連れ込んでも何も言われないような、そんな冷めた空気が漂っていた。
 そんな家から逃げるようにバイトに明け暮れて、仕事終りには彼氏と一緒に帰宅して自室に引きこもって過ごす。
 うだる暑さの続く日々の中、突然彼女は現れた。

 夏の終わり、バイト先のシルバーショップに、大きなカバンを抱えた彼女は何かを欲する風でも無く、ぼんやりとショーケースの前に突っ立っていた。
 年齢は、高校生くらいに見えた。
 あたしが声をかけると、彼女は二言三言答えた後、店から出て行った。
 その時はさして気にも留めなかったけれど、その数十分後に彼女はまた店に入ってきた。
 「何か気になった物でもあった?」
 あたしが気さくにそう尋ねると、彼女は俯いて、
 「この辺りで安く泊まれるところを知りませんか?」
 と逆に尋ねてきた。

 あたしは改めて彼女を見た。ぽっちゃりとした体型に茶色のストレートヘア、ふわふわした水色のスカート、左手首に包帯。
 「この辺りだと旅館しかないよ。どっから来たの。」
 「名古屋です。」
 「今からじゃあ電車も無いよ。」
 彼女は表情を変えなかった。心細げな表情の中に、どことなく投げ遣りな想いを隠しているようだ。彼女は無言のまま俯き、そのままショップを出て行こうとした。何となく見過ごせなかったあたしは思わず、
 「…ウチ来る?家族と同居だけどさ、みんなそれぞれ適当に過ごしてるような家だから。」
 考えるより先に口を衝いて出た言葉だった。
 彼女は暫く躊躇う様子を見せた後、頷いた。

 こうしてあたしは陽子を『拾った』。

 何故見ず知らずの、しかも訳ありそうな子に世話を焼こうと思ったのかはわからない。だけど、今ここであたしが彼女を拾わなければ、数時間後にでも彼女は死体になってしまいそうな気がしたのだ。
 彼女は、それだけ危うく儚げな空気を持っていた。

 「もうじき店閉めるから待ってて。」



 陽子は始終落ち着かない様子で家の中を見回していた。
 田舎の街に不釣り合いな合板の三階建てがあたしと家族の暮らす家だ。
 家族一人一部屋、プラスダイニング、キッチン。広くて、寒々しい家。
 キッチンのごみ箱にはいつも小さな羽虫が湧いていたし、風呂場もカビだらけだ。誰も掃除などしようとしないし、みんな全てに無関心だ。
 父親は呑んだくれの新聞記者で、母親は近所の団子屋でパートをしながら介護福祉士の資格取得を目指している。姉は生まれつき軽度の知的障がいがあり、福祉作業所に通う。

 うちには厄介者が二人いて、一人は言うまでもなく父親だが、仕事だけは真面目に通い、とりあえずは家族全員を養っている。
 もう一人の厄介者―――妹はそれこそ、何かあれば突発的に刺し殺したくなる程の人間失格者だ。
 盗癖があり、あたしの留守中に部屋のかぎをこじ開けてはCDからアクセサリーまで自分の気に入った物を何でも盗んだ。そして、それを信じられないくらい散らかした自分の部屋に投げ出して、足の踏み場が無いものだからあたしから盗んだものを踏みつぶして壊してしまう。妹の中では盗んだ時点で自分の欲求は満たされていたようだった。
 この事で、何度諍いが起こったか数えきれないくらいだ。
 おまけに好色で、けれど男を簡単に釣れる程の器量も無い。部屋にはアダルトコミックが散乱し、おまけにローターまで転がっている。そんな部屋を母親に掃除させる。
 ついこの間も、海外に自動転送されるアダルトチャンネルの回線を使いまくって三十万円の請求が来た。
 性欲旺盛な豚が、家計を食い潰して行く。母親は支払う義理も義務も無いのに、妹が二次元の性欲処理に費やした費用を捻出するべく、明け方、まだ日も昇らないうちに凍える道を団子屋に向かう。

 あたしと言えば、高校卒業後ひたすら上京を目指していた。けれど何の因果か、それとも血筋か、『何かに入れ込んでしまう癖』は悪い方向へと向かい、物欲の虜になっていた。
 買い物依存症、とでも言うのだろうか。どこかへ出かければ、必要のないがらくたばかり買い漁ってしまう。自分でもそれが悪い事だとわかっているから尚更、買った後の罪悪感がストレスになり、さらに買い物へと走ってしまうという悪循環を繰り返していた。
 もう一つの悪い癖はカッティングで、あたしは自分の体を傷つける事が好きだった。好きだった、と書くと語弊があるかもしれないが、根本を探ってみればやはりあたしは自分で自分を切り苛んだり、煙草の火を肌に押しつけてみたり、あるいはピアッシング用のニードルで体をめちゃくちゃに突き刺す行為に耽溺していたのだと思う。

 陽子の手首の包帯の下は、あたしのそれとは明らかに違っていた。
 切った瞬間、すぐにでも救急車を呼んで縫合しなければならないほどの傷だったのだ。切りっぱなしで包帯を巻かれただけの生々しい深い傷口は腕ではなくちょうど手首の位置にあって、赤黒く変色し、膿んでいた。
 あたしは陽子の包帯を替えながら、この子は本気で死ぬつもりだったんだな、と感じた。

 「リストバンド、あげる。蒸れるかもしれないけど、包帯をむき出しにしているよりは目立たないと思うから。」
 あたしは自分の気に入っていたレースのリストバンドを彼女に与えた。彼女は小首をかしげるように笑って、ありがとう、と云った。
 自分の妹が、多少抑鬱の気があったとしても、これだけ謙虚で物静かな子だったら良かったのに。

 先に書いたように、あたしの家はすでに家族がバラバラの状態だったから、家族に陽子一人増えた所で何ら変化があるようには見えなかった。
 彼女の生い立ちは、聞くところによると、かなり悲惨なものだった。
 数年前に、母親ががんで他界し、父親は借金を抱えてビルから飛び降りた。
 名古屋で兄と二人暮らしをしていたが、ついなんとなく家を出てきてしまって、数日を駅やファミレスで寝泊まりしていたという事だ。兄との間に確執があったかどうかについては、彼女は何も言わなかったので、あたしも敢えて触れないようにした。
 彼女の言う事が真実でも嘘でも、それは彼女の纏う痛々しい空気に相応しい身の上で、あたしも当時実家で一緒に暮らしていた男も母親もそれを信じた。


 陽子が家に来て、一週間が経った。
 その間に斜向かいの雑木林では最期の力を振り絞るように蝉が喚いて、やがてその音もピークに達した。
 母親は陽子の存在に、明らかに苛立っていた。
 「悪い子じゃない事はわかっているのよ。でも、あの陰鬱な空気が耐えられないの。毎日毎日、何処かへ行くわけでもなく、積極的に仕事を探すわけでもなく、手伝いをするわけでもなく。」
 彼女は一日の大半をダイニングのテーブルに突っ伏して、ずっとラルクのCDをポータブルプレイヤーで聴いている。
 うちに来てからと言うものの、陽子なりに遠慮はしているようだったが、働きづくめの母親にとって、素性も知れない女の子が何もせずに家に居座っている事はとても気分が悪いことのようだった。

 あたしは自分が家に居る時は、できるだけ彼女を自分の部屋に置く事にした。そうすると彼女はベッドに横たわって、眠るわけでもなくぼんやりと宙を眺めていた。
 その日早上がりだったあたしは、疲れも相まって、彼女の隣に寝転がって雑誌を読んでいた。
 立ちっぱなしの接客業では足がひどく疲れる。あたしは雑誌を伏せ、少し汗ばんだ体をベッドに横たえて軽く目を閉じた。
 その刹那、唇に柔らかい感触があった。目を開けると、陽子の顔が傍にあり、彼女は少しの間目を伏せて黙った後、
 「ごめんなさい、こういうの、イヤ?」
 と、か細い声で言った。
 「そんな事無いよ。別に陽子がそうしたいんならあたしは全然構わないし、キスなんて挨拶みたいなものだから。」
 あたしがそう答えると、陽子は柔らかい腕をあたしの体に回してきて、再びあたしの唇にキスした。
 彼女がどういう気持ちでそんな事をしているのか、あたしにはさっぱりわからなかったけれど、たとえどんな形であれ彼女が愛情を求めている事は伝わってきた。
 あたしたちは何度もキスした。西日の照るだだっ広い部屋の一角で、お互い髪を撫で、首筋や頬にもキスをした。けれど、それ以上の事は何もしなかった。
 彼氏が知ったら怒るだろうな。あたしはそんな事を考えながら陽子の頭を撫でていた。

 陽子がうちに来て二週間が経った。九月も半ばを迎えようとしていた。
 彼女は相変わらずで、ダイニングに突っ伏してCDを聴き、毎日を過ごしていた。
 あたしは仕事に通いながら、陽子のいる生活が当たり前になってきたことを何となく感じていた。そして、何かにつけて陽子を妹扱いしたがる自分の妹に対する憎悪は募るばかりだった。
 対して母は、陽子の暗い気質に我慢の限界を迎えていたし、妹はそれこそ居丈高になって陽子に無意味な説教を繰り返した。説教をする前に、自分のベッドに転がっている埃まみれのバイブをどうにかしろ、とあたしは思った。
 家の電話回線を全て独占して、月の電気代は六万を超え、いつ火事になってもおかしくないようなゴミ溜めの部屋に、山積みにされた煙草の吸殻。
 あたしは心底嫌だった。陽子が妹だったらどんなに良かったか、といつもいつも思っていた。

 両親が早くに悲劇的な他界をし、路頭に迷って自殺未遂をし、いつだって愛情に飢えている。
 このケースにあてはめるならば、あたしの妹は業が深いだけお似合いに思えた。
 どうして世の中こんなにうまくいかないのだろう。潰れた方がいい人間がのうのうと生き残り、家族も他人も食いつぶし、本当は愛情を注がれて大切に育てられたはずだった人間が深い闇に落ちている。

 キスをして抱き合って一緒に眠ったとしてもそこに性欲は無くて、あたしは子猫を抱いているようななんだか切ない気持になった。
 泣きじゃくる陽子の頭をいっぱい撫でた。大丈夫だよ、しばらくゆっくり休みなよ、と囁いた。
 それは、あたし自身がして欲しい事だった。
 それをそのまま陽子にしてやる事によって、あたしは少しだけ楽になれたような気がする。

 それから数日が経ち、陽子は突然「名古屋に帰る」と言いだした。帰った後、どうするのかと尋ねると、学校が始まっているからきちんと通わなきゃ、と言う。
 そう言えば、陽子は高校生だった。

 このさめきった家で過ごした夏の終わりは、彼女にとって有意義だっただろうか。
 少しは、心の傷は癒えただろうか。
 あたしの家族は相変わらずバラバラで、陽子がいなくなろうが何事も変わらないブっ壊れた日々が続いたけれど、あたしにとって彼女がいた日々は、今も色あせることなく記憶の中に蘇る。

 『いつまでも見守ってあげたいけど もう大丈夫 優しいその手を 待ってる人がいるから』

 記憶とともに、彼女の愛していた歌が蘇る。
 あれから数年が経つけれど、陽子は元気に笑っているだろうか。
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[2009/03/31 03:33] | 小説―heavy |
*底辺*
 あんなにも東京に憧れて田舎の街を出奔したというのに、あたしがまず住みついた場所はおおよそ埼玉に近い東京のはずれで、しかも家賃は地元の三倍、といった具合だった。
 新宿駅に降り立った時の期待がまるで夢から覚めるように薄れていく。
 心細いと思いながらも、あたしは故郷に戻るつもりはなかった。

 東京に着いた日、夜を徹して降り続いた雨は、外が明るくなっても止む事は無かった。
 その後何日も雨の日は続き、あたしは水浸しの靴の中に肉刺をたくさん作りながら、バイト探しに勤しんだ。

 家出同然で実家を飛び出してきたあたしに、仕送りなど有る筈がない。高卒、その後一年フリーター生活。東京ではそんなに珍しくも無いケースだと思っていたけれど、仕事は全く決まらない。
 何かを目指してきたわけでもなく、ただ田舎の暮らしと家族間の軋轢に耐えかねての逃避のような季節はずれの上京だった。
 あたしの地元はプライドの高い地域性だとよく言われるが、妥協に妥協を重ねての仕事探しにいい加減うんざりして、あたしは投げ遣りにヘッドショップのバイトの面接を受けた。
 その仕事はあっさりと決まった。

 数週間、仕事探しに明け暮れて、あたしの体は疲れのピークを迎えていた。
 地元に比べて湿気が多く、紫外線こそ弱いものの蒸し暑くて、風が無くて、淀んだ空気は腐臭を放つ。
 路地裏の、まるで映画に出てきそうな猥雑で汚い落書きだらけのビル群の一角で、あたしは脱法ドラッグを売る。周囲は焼鳥屋や古びたラブホテルや、ポルノショップが立ち並ぶ掃き溜めのような場所だ。
 呼吸ができない。
 あたしは無気力ながらも精神安定剤を詰め込みながらひたすら働いた。ラリった客相手の商売は、普通の神経では到底務まらなかった。

 時々、表へ出て煙草を吸っていると、いかにもヤク中の売春婦といった体の女たちが母国語で話しながらふらふらと目の前を横切って行くのをよく目にした。

 あたしと彼女たちと、いったいどこが違うというのだろう。帰る所も無く、借金に縛られて返すあてもなく、体を切り売りする彼女たちと、あたし自身にたいした差異は無い。
 ひどく虚しかった。
 そして秋桜の咲き乱れる故郷の湖畔を懐かしく想った。
 それでも、帰るわけにはいかなかった。

 働き始めて一ヵ月が過ぎた事、スタッフの一人がクスリの食い過ぎで錯乱し、自宅に放火するという事件が起こった。本人は全治二か月のやけどを負って入院した。
 スタッフはほぼ全員がジャンキーだったし、社長なんてその最たるもので、店に顔を出す時は必ず充血した目の瞳孔は開いていて、丸で煙草を吸うようにジョイントを咥えて渋谷を歩きまわっていた。
 だから、そんな事件が起こっても誰一人気にするものはいなかった。
 何が起こっても他人事。そればかりか、笑い話の種にさえなりかねない。
 あたしは気が狂いそうだった。でも、それが東京なのだ。

 東京の澱んだ水を啜って壊れて行くのは嫌だった。
 だけど今度こそ、逃げ場は何処にもなかった。あたしは望んでここへ来たのだ。
 一ヶ月サイクルで男の子と付き合っても、最終的には何の解決にもならなかったし、傷が残るばかりでささくれだった心では相手を思いやる気持ちすら持てない。
 もっとも、あたしに相手を本当に思いやる心があったかどうかは分からないけれど。

 蝉が鳴き始める頃、あたしはヘッドショップの仕事を辞めた。
 法的な規制が厳しくなり、売れ筋商品が殆ど撤去されてしまった店は今や閑散としていて、辞める事も容易かった。

 ここは東京のほんの一角だ。けれど、あたしはこの戦場を生き延びるためには、今までに培ってきた甘っちょろい価値観やニンゲンをニンゲンとして見る目を変えなきゃならない。
 喩え、誰かが目の前で泥水の中に這いつくばったとしても、あたしはそれを指さして笑うしかないのだ。笑え。笑え。
 生温く、腐ったような周期を放つ風が、頬をなでた。あたしの長い髪をからめ取るように、都会の風があたしを動けなくしていく。
 それでも。それでも帰るわけにはいかない。帰りたくない。
 どんなにどん底に落ちても、あたしは此処にいたくてここにいるのだ。
 帰る場所は、もう、無い。

 あたしは自らの意思で、こんな汚泥にまみれているのだ。
[2009/03/30 04:36] | 小説―heavy |
*かつおのたたき*
 なんで、あたしよりあの女が好きだと言うの。
 彼の部屋のロフトに寝転んで、頭の中で呟く。

 「これが、俺の彼女。今は地元に住んでて遠距離恋愛なんだけどね。」
 クラブで知り合ったショウジは、あたしより三つ年上で、国立大学の理工学部に通っているエリートだ。
 ディズニーランドのお菓子の缶から取り出して見せてくれた写真に映った女の子は、とてもじゃないけど美人じゃなくて、どちらかというと不細工の類に入る顔だちをしていて、それがあたしを苛立たせた。
 あたしのほうがずっと綺麗じゃない。お似合いじゃない。ついでにあたしとこういう関係を続けてもう三ヵ月になるじゃない。
 そんな言葉を飲み込んで、あたしは真っ白な天井を睨む。

 彼女がいる事は最初から聞かされていた。それでもあたしはショウジの事を自分のものにできる自信があった。だから、二週間に一度は必ず横浜にある彼のアパートに押し掛けて、世話を焼いたり雑談をしたりした。
 あくまで友達として。強がって関係を強調したって、彼が眠るのはいつもソファだった。
 顔だちも、スタイルも、ファッションのセンスも全てにおいてあたしの方が上である事は誰が見ても明らかだろう、そう思った。いまどき癖っ毛の髪を染めもせずにひっ詰めた、地黒で化粧っ気の無い女に自分が劣っているとは思いたくなかった。

 ショウジの部屋に行った時はいつも、絶対に化粧は落とさなかった。それはあたしの意地でもあったし、洗面所に並んでいる二本の歯ブラシを見るのが嫌だった事もある。

 いつも通り駅前の商店街で花火とビールを買って、彼の部屋のチャイムを鳴らす。中から、「入っていいよ」と声が聞こえてきて、あたしは今日こそは、と思いながらドアを開ける。
 彼の好みに合わせて切った髪、彼の好みに合わせた赤いベルボトム。BEAMSで買ったTシャツとヴィヴィアンのアクセサリー。
 別に、彼がそうすることを望んだわけではないけれど、あたしはいつも彼の部屋にある雑誌やDVDを意識して、そして彼と一緒に入った店なんかを色々巡っては彼の好みの女の子になろうとしてきた。
 彼は太り過ぎでもやせ過ぎでもなく、それでも背はあたしより頭一つ分くらい高かった。身長が百七十センチあるあたしにとって、ヒールを履いても自分より背の高い男にはとても惹かれたし、ショウジは音楽のセンスもファッションのセンスも、ついでに頭も良かった。
 「花火、買ってきた。後で公園でやろうよ」
 あたしがそう言うと、彼はにこにこと笑って、いいね、と言った。
 いつもなら、大学の友達を呼んで、何人も集まって騒ぐのだけれど、その日はなぜか二人で花火をする事になった。

 赤に黄色に緑に白、色を替えながら噴き出す花火を振り回して、宵闇の中をはしゃぐ。
 無邪気に笑うショウジの八重歯が可愛らしくて、あたしは三ヵ月我慢した思いを吐露しそうになる。
 彼女と別れて、あたしと付き合ってよ。
 友達扱いしないで、一緒のベッドで今夜寝ようよ。
 そう言いたい。だけど言えない。
 もどかしさが募る中で、花火の残りはあと僅かになった。

 「今日さぁ…晩飯、鰹。鰹の敲き。」
 「あ、いいね。ビールもまだ残ってるし、楽しみ楽しみ。」
 「彼女が送ってきたんだよね。わざわざクール便で。」
 「…そうなんだ、じゃ、あたしもごちそうになっちゃおう。カノジョさんありがと~」

 あたしは内心動揺しながらも、努めて明るく取り繕った。
 生臭い、生活臭。あたしはそういうの好きじゃない。
 もっとドラマチックな、お洒落で素敵で知的な恋愛がしたい。ショウジとはそういう事が出来ると思っていた。
 でも違った。
 恋に恋しているからあたしはいつまでたっても一人なのだ。
 それをわかっていても、いくら相手に失望しても、あたしはドラマチックな恋愛がしたい。

 その日、ショウジの家で食べた鰹の敲きは新鮮でも何でもなくて、おいしくも無かった。
 それでもショウジは嬉しそうにそれをほおばって、彼女にメールを送っていた。
 あたしは半分食べて、箸を置いて、後は飲めるだけ飲んで酔い潰れて寝た。

 目が覚めると時計は朝の十時を回っていて、あたしはソファに寝ていた。
 机の上のメモには、「鍵はポストに入れといて」と書いてあった。
 あたしは帰り支度をし、ふと思い立って、長い髪を数本抜いてユニットバスの隅やロフトの枕の下に残しておいた。
 せいぜいお幸せに。鍵を閉めて、ポストに放り込む。アルミの派手な音がした。

 もう二度と、こんな所に来るものか。
[2009/03/30 03:41] | 小説―light |
*眠りの中*
 眠りすぎて眠りすぎて、もうこれ以上は眠る事さえストレス、って具合に眠り続けて。
 目が覚めたら、一ヵ月経っていた。
 その間に全く目覚め無かったわけじゃない。食事もとったし、トイレにも立った。煙草も吸ったし、歯も磨いた。だけどその基本的な生活の最低限一部分を除いて、あたしはその他の時間をほぼ駄眠に費やした。
 とにかく眠って居たかった。

 眠りに逃げてしまいたい、という深層の心理はあったのかもしれない。
 けれど然したる理由もなく、それほど深いショックを受けるような出来事も無かった。
 あたしはただ、退屈な毎日から逃げ出してしまいたかったのかもしれない。

 夢の中で、あたしは色々なものを見た。
 今日見た夢は奇妙なもので、まず、すべての歯が抜け落ちてしまうという縁起の悪い夢にうなされた。歯や髪が抜ける夢を見ると、健康を害するという。
 そして、母が再婚する夢を見た。現実に父はとうに他界しており、母の再婚もありえない話ではなかったが、齢六十にしてなお現役の女、と言うイメージはさらさら無い人なので、その場にいるあたしは色打ち掛けを羽織った母の姿に、とても奇妙な心持だった。
 母の再婚に、手渡すはずの紅色のカラーの花束を家に忘れてきてしまい、車を飛ばして家に戻り、花瓶に生けっぱなしのカラーを取る。
 花は瑞々しく咲いているというのに、茎の部分、根元の部分から黒ずんで腐っていく。花鋏で一生懸命取り除いても取り除いても、黒ずみはカビの浸食のようにじわじわと広がり、粘液質の草汁が糸を引く。
 気持の悪い夢だった。

 こういう夢を見ると、自分の身に何か起こるんじゃないか、家族の身に何か起こるんじゃないか、と不安になる。けれど、原因を考えてみれば簡単な事、一ヵ月も寝ていれば心身に悪影響が現れない方がおかしい。

 「すごく怒ってたよ。」
 「あたし怒ってた?」
 「うん、何度か明け方に怒鳴られて、びっくりしちゃった。」
 夫がギターを弾く手を休めながらそう笑った。今日、夫は仕事が休みで朝から掃除に洗濯に買い物に、甲斐甲斐しく動いている。一段落した今は、昔から続けているギターを弾いていた所だった。

 出会った頃の夫は、まだ十八でライヴハウスで三ヵ月に一度ペースでライヴをしていた。
 その頃のあたしはまだ甲状腺の病気が発覚する前で、なんとなく体がだるい事や抑鬱状態が時々ある事などを全て精神的なものと思いこんでいた。
 中途半端にファッションモデルの仕事をし、中途半端に花屋のバイトをしながら適当に過ごしていた日々の中では、夢に怒りわめく事も無かった。
 今が安寧に恵まれ過ぎているから、何かしら昔の苛立ちや、今に於ける仔細な事―――それこそ重箱の隅をつつくような事を勝手に探っているのかもしれない。

 日常の中に怒りは無い。無意識のうちに抑制されたものは在るかもしれないけれど。

 自分も年をとったな、と、思う。十年前の事が、丸で昨日の事のようだ。
 けれど十年前、あたしは自分の感情にとても正直だったし、それを素直に表に出す事も厭わなかった。感情を殺すようになったのは父親が死んでからだ。
 あたしはアル中の父親が大嫌いだったし、今でも許す気にはなれない。とても心の狭い人間なのかもしれない。
 あたしの中で今も燻り続ける怒りの根本は、父親に対するものでもある。
 それこそ、やりたい放題やって、後は無責任という、甘えん坊の気狂いに違いは無かった。
 そして、その気質は妹にしっかりと受け継がれている。
 二十代も半ばを過ぎて、実家に寄生し、煙草とスナック菓子の袋と借金の督促状に埋もれながらぶくぶくと肥え太った妹。自分は精神病だと言い張り、薬に依存して何度も車で事故を起こし、そのたびにかかる費用を全て母親に負担させている妹。
 その言いなりになって、金を渡し続ける母は、老人ホームで介護ヘルパーをしている。月に十数万いけばいいくらいの薄給で、豚を養う。
 ああ、あたしの怒りの根源は此処にもあったんだ。

 実家に帰るたび、妹は、「お姉ちゃん、整形した?」などと訊く。あたしはそれに答えない。
 『精神病患者のふり』にいちいち付きあっていたら身がもたない。
 あたしは病気のせいで太りやすく、皮膚も固くなりやすい。そうならないために、体が云う事を聞くときはヨガのクラスに通ったり、スキンケアにも気を遣う。
 その努力の結果を「整形した?」の一言で否定したがる妹は明らかに自分の負けを認めているのだ。自分の負けを認めながらもあたしを貶めたくて仕方ないのだ。

 目が覚めたら、妹と言う存在が消えうせていればいい、と、何度も思う。
 父親の事を非難し、「家族の中で一番の被害者は自分」と言い続ける妹。
 あたしが十一の時から父親に何をされていたかも知らないで、よくもそんな台詞を吐けたもの。
 その事が発覚して、両親が別居に踏み切った事も知らず、「自分は捨てられた」とはよく言えたもの。

 やっぱりあたしは眠り続けていたいんだな、と思う。
 十年前なら家族の事なんて無視してひとりやりたい放題やっていればよかった。
 今は、そうもいかない。自分のこれからや、年老いて行く母親や、知的障害を抱えた姉の事を思うと怒りにまかせる事は許されない。
 我慢をする事。これが大人になったあたしに課せられた責務だ。それに耐える事すら億劫で、あたしは眠りに逃げているのだ。

 夫は数年前と同じように、音楽の制作に打ち込み始めた。
 あたしは何かをしなきゃならないと思って、文章を綴り始めた。
 夢をかなえるためではなく、名誉を得るためではなく、認められる事によって自分にとって障害となるものを排除するため、怒りの根源を断ちきって二度と悩まされないようにするために。
[2009/03/30 02:39] | 小説―light |
*桜降る夜*
 どこか遠くへ行きたかった。目指す場所は無い。
 ただ漠然と、このまま電車に揺られて終着駅へ、そしてそこから電車を乗り継いでできるだけ遠くへ、遠くへ。そんな風に思っていた。

 赤飯を炊かれる、というのは自分にとってひどく屈辱的だった。何の記念日でもない春の夜、テーブルの上には家族分の茶碗に盛りつけられた赤飯。
 赤飯を一瞥した後酒をあおる父親、『何かのお祝?』と無邪気に母に尋ねる妹。その夜あたしはとても居心地が悪かった。
 別にそんな事を家族中に知らせる必要なんてないし、血を流す事が大人への通過儀礼なのだとしたら、あたしはとっくに血を流している。どちらかと言えば、そっちの方を家族には知ってほしかった。

 腕に巻いた包帯の内側が蒸れて痒い。包帯の上から掻き毟ると、生傷に張り付いたガーゼが剥がれて痛いような熱いような、痛覚とは少し違う不思議な感覚を覚えた。
 あたしは何の意味も無く自らの体を傷つける。
 理由を考えて見ても特に思い当たる節は無く、ただ漠とした不安の中で暇をもてあまし、カッターナイフでうでをざくざくと切りつけてから傷を消毒し、まだふつふつと赤い血の湧き上がる切り口に軟膏を塗り込んでガーゼを貼り、包帯を巻く。
 切る事よりは、手当てをする方が好きだった。

 あたしの意思とは無関係に血を流し続ける体を電車の座席に沈めて、ふと海が見たい、と思った。
 だけどあたしの住む街から海は遠すぎて、いくら電車を乗り継いだとしても辿り着けないような気がした。
 海の無い街。電車は未だに自動ドアではなく、手動で開け閉めしなければならない二両編成で、こんな田舎に移り住んだ両親を幾度となく恨んだ。
 東京へ出たい。周りの子は皆口をそろえてそう言うし、あたしも例外ではなかった。
 大人は皆、ここの環境が素晴らしいと言う。落葉松林に風情を感じ、大きな湖の季節の移ろいも好いと言う。だけどあたしはちっともその良さが分からなかった。

 こんな場所にはいたくない。
 こんな自分は本当の自分じゃない。
 早く大人になりたい。

 そう思いながらあたしは日々を過ごしていて、今すぐにでも大人になりたいと願っているのに、自分の体だけ勝手に『大人』になってしまった。

 『他の子よりちょっと遅かったけれど、ユウもこれで立派に大人の女性ね』

 言いようのない苛立ち。子宮が子どもを作れる状態になっただけの話。
 あたしはどこにも行けない。この場所から抜け出せずに、これから毎月体の重さや痛みに耐えながら何度も何度もスカートを気にしてトイレに駆け込む日々が続くのだ。

 今日だけでいいから、あたしはどこかへ行ってみたかった。

 電車が止まると、外はもう真っ暗だった。自分が今どこの駅にいるか、それ以前にここは一体自分の街からどれだけ離れているか見当もつかなかった。
 あたしは無人の改札を抜けて駅前を少し歩いてみた。
 地元の駅よりもずっとずっと寂れた商店街は軒並みシャッターを下ろし、あるいはすでに店をたたんでいて閑散としていた。
 もう終電も無く、お金は片道で使い果たしてしまった。四月も半ばだし、凍えはしないだろうと思いながらも、寒さはつま先からしみてきて、出血を続ける子宮が鈍く痛んだ。
 蛾のたかる自動販売機でビールを買って、痛み止めと一緒に飲む。商店街には白と桜色の提灯がずらりと並べ吊り下げられていて、誰もいない道を照らしていた。

 商店街を抜け、線路沿いに流れる河原を歩く。そこは桜並木になっていて、満開の桜が切れかけた街灯と付き明かりに照らされて白く浮かび上がっていた。
 あたしは足元に気をつけながら河原まで降りて行き、少し大きめの岩に腰かける。風が吹く度に桜の花びらがはらはらと舞い降りてきて、髪や服にまとわりついた。
 桜なんて、見飽きるほど見ている。あたしは海が見たかったのに、なぜかこんな山里の、どこかの川の源流みたいな沢の畔に来てしまった。

 こんな景色が終着点だなんて思いたくない。

 さっき飲んだビールのせいで尿意を催したあたしは、行ったん辺りを見回してから岩陰で用を足した。川の淀みに赤い血液がぼたぼたと落ちて行った。
 とたんに、涙がぼろぼろとこぼれた。汚らしいな。痛くて、つらくて、そして汚らしいものを排出する現象があたしの中で起きている。
 子どもだったから出来た事が、次第に限られていく。
 替えたナプキンは、桜の花弁とともに流れの早い川にゆっくりと沈みながら、あっという間に消えて行った。

 桜の花びらが舞い散る中、あたしはいつも持ち歩いているポーチからカッターナイフを取り出し、包帯を外して生傷の上に刃を立て、すっと引いた。
 流れ落ちる血液は、粘り気もにおいも何もなく、ただただ清浄なものに思えた。
 桜、降る夜に。
[2009/03/28 01:34] | 小説―midium |
*グラスルーツ*
 目を閉じて、星空の彼方に意識を飛ばす。

 歌舞伎町の真ん中にあるクラブの、狭いロッカー室の床に横たわったあたしの意識はクスリの宇宙に溶けて行く。
 フリンジのついた赤いベストとミニスカートのツーピースはとても安っぽくて、ボロ雑巾のような私によく似合う。このクラブで働く女の制服で、露出の多い下品な服。

 力の抜けた体の横に投げ出したベースとハイヒール、化粧品と名刺の入ったポーチ。
 冷たい床の所々に落ちている綿埃と髪の毛。ドアの向こうからは耳障りなトランスが聞こえてくる。
 あたしは冷え切った肌を時々擦りながら、死んだふりをしている。

 こんな場所で、あたしは一体何をしているのだろう。何がしたいんだろう。何のために?

 疑問をかき消すためにクスリをたくさん飲む。体も脳もスロウダウンさせて、虹色の世界に逃げる。落ちて行くのか昇って行くのか、あたしの意識は滅茶苦茶だ。

 不意に、頭を蹴られて、瞼を上げる。
 ぐんにゃりと歪んだ景色が次第に輪郭を帯びて、あたしは何度か瞬きした後のろのろと起き上る。
 あたしの頭を蹴った女は煙草に火を点けて、溜息と一緒に煙を吐き出しながら、軽蔑の眼差しであたしを見ていた。

 『あと十五分でステージ始まるから、さっさと用意してよ。客の席に着かないのはあんたの勝手だけど、ライヴだけは真面目にやってよね。』

 あたしと同じ服を着た彼女は、筋肉質の腕でロッカーを開けるとドラムスティックを取り出して、わざと音を立てて閉めた。
 クスリのせいで聴覚が敏感になっていて、そのヒステリックな音に頭がくらくらした。
 あたしはだらしなくへたり込んだまま、無言でハイヒールを履き、ベースをチューニングする。彼女、アユミはそんなあたしの姿を一瞥して「さっさと来てよ」とロッカー室を出て行った。


 このクラブに勤め出してから一ヶ月が経とうとしていた。
 クラブと言ってもキャバクラ兼ライヴハウスみたいなもので、一日に二度あるステージも単なる余興でしかない。楽器なんて弾けなくてもいいのだ。
 要は、楽器を下げるストラップで寄せられた胸の谷間や短すぎるスカートから見え隠れする下着が見られれば、客は満足して拍手をくれる。
 あたしはベースというポジションにいたけれど、素人同然だし練習する気も起きない。
 大勢のキャストの中で唯一ベースを持っていたという理由だけでベース担当にされてしまったあたしと、音楽の専門学校に通いながらここでもドラムを叩いているアユミとは全く違う。
 だけどベースさえ持っていればラリってロッカー室に寝そべっていてもクビにされないのだ。

 仕方なく立ち上がり、鏡に向かう。
 スポンジのはみ出たパイプ椅子に腰かけて、眼の周りに滲んだ化粧を拭い、ファンデーションを塗りたくった。
 マニキュアの剥げた指先で髪を整え、改めて自分の姿を見つめる。荒れた肌、ピアスだらけの耳、痩せすぎた体、瞳孔の開いた眼。ちっとも可愛くない。

 こんな仕事には向いていない事は最初からわかっていた。だけどあたしは彼と別れてから何もすることがなくなってしまったのだ。
 する事がなくなった、というより、何もかも放棄してしまった、と言ったほうが正しいのかもしれない。適当に稼いで、クスリをやって、その勢いで店に出て、適当に稼いで…その繰り返しだ。

 二か月前までは、お金の使い道がちゃんとあった。彼のバイクのローンを手伝ってあげた。彼のアパートの家賃を払ってあげた。
 事あるごとにプレゼントをしてあげた。そのためなら自分に向いていなくてもクスリなんて使わなくても、平気で彼に黙ってバニーガールやキャバクラ勤めをする事ができた。
 彼はどうしようもなくだらしがなくて、ろくでなしだったから、あたしがついていなきゃ駄目だと思っていた。

 それが、いつの間にか昔の女とよりを戻していて、しかもあたしをあっさり切り捨てて、出戻りで子連れのその女を選んだ。
 彼より五つも年上の、とんかつ屋の娘。
 その女のために、子どものために、ろくでなしだった彼は今、バイク便の仕事を毎日休まず続けている。

 彼とは、いい友達でいようね、と別れたのに、その翌週にはホテルに連れ込まれていた。
 言いなりになるあたしも愚かだったけれど、他に仕様がなかったのだ。
 空っぽになった自分自身を埋めるものがたとえ生ゴミが腐ったような薄汚い欲望だったとしても、あたしは甘んじて受け入れるしかなかった。

 そうしないと、あたしは正気を保てそうになかったのだ。

 三度目にホテルに行った時、今まで抑えていたどうしようもない怒りと悔しさと辛さでいっぱいになって、思わず涙を零してしまった。
 それを見た彼はさすがに良心が咎めたのか、「ごめんな」と一言だけ言って部屋を出て行った。

 それから今まで、彼と連絡はとっていない。

 ポーチを閉じて、ベースのストラップを斜めに掛けてロッカー室を出る。
 薄暗い店内はミラーボールに色彩の鮮やかな光が反射していて、あたしは軽いめまいを起こす。
 さっきまで死んだふりをしていた体は重く、指先まで冷えてだるい。

 ベースを壁に立てかけ、おぼつかない足取りでキッチンに入り、一番安い焼酎をグラスに注いで飲み干す。胃のあたりが焼け爛れていく気がする。

 『ユウちゃん、最近ちょっと食いすぎじゃないの?ほどほどにしときなよ。』

 厨房の奥から宮川くんが声を掛けてくれる。彼は長野から上京して三ヶ月だと聞いた。
 この店は、昼はライヴカフェとして営業していて、彼は日中カフェのホールとバンドのベーシストとして勤め、夜はキッチンに入る。
 昼日中にカフェで演奏するわけだから、酔っ払い相手のあたしとは違う。きちんとした楽器の腕があってこそ勤まる仕事だ。

 宮川くんは今のところ順調に働いているけれど、これだけの激務の中でいつリタイアしたっておかしくないな、とあたしは時々思う。
 音楽で食っていくことを夢見て上京したって所詮、ずるずると都会に飲み込まれて年齢に負けていなくなる。
 あるいはあたしと同じ穴の狢、胡散臭いクスリに手を出して体中にタトゥを彫って帰る場所さえなくしてしまう。

 『大丈夫大丈夫、…心配してくれてありがと。』

 グラスを置いてそう言うと、宮川くんは、別に心配なんかしてねぇよ、と笑った。
 その口元にはチタンのピアスが刺さっていて、それは彼の綺麗な顔によく似合っていた。   

 宮川くんは優しい。見た目も良いし、気さくで天然な所が可愛かった。
 もし彼がフリーだったらあたしは彼の事を好きになっていたかもしれない。
 そしてクスリになんて手を出さなかったかもしれない。
 だけどキャストの子達の話では、彼には付き合っている女の子がいるという事だった。その話を聞いた時点であたしの気持ちはすっかりさめた。

 あの女と同じ真似はしたくない。ふてぶてしくて、汚らしくて、貪欲なあの女。思い出したくもない、甲高い猫撫で声。

 一度置いたグラスに水を注ぎ、うがいをする。シンクに吐き出された水はほんのりと赤みを帯びていた。
 口の中が荒れて、口内炎が幾つも出来ているのだ。けれどクスリで感覚の麻痺した自分にはそれがわからない。
 じゃあ、行ってくる、とキッチンを後にして、あたしはフロアに戻り、グラスルーツのロゴが入ったベースを下げてステージに向かう。
 他のメンバーはもうそれぞれの配置についていて、アンプのボリュームを調節したりマイクの位置を直したりしている。

 あたしはふらつく足で床を踏みしめながら、床に転がっているプラグを拾った。

 さっきまでロッカールームに転がっていた自分自身のかけらを拾い上げるように。

[2009/03/26 02:07] | 小説―ultra heavy |
*汚れた川のほとりで*
 その釣り堀は、大きな川と土手を挟んですぐ隣にあった。
 台風が来て川の水かさが増すと、毎年のように多くの魚が釣り堀から脱出し、本来居るべき場所である川へと戻って行った。
 あたしは土日だけ、その釣り堀の食堂でアルバイトをしていた。釣り客に簡単な食事の提供をしたり、売店を手伝ったり、釣り客に話を合わせて愛想笑いを振りまいたり、高校生にしては地味な仕事だ。

 土手に自転車を止めて、釣り堀の裏口へ降りて行く。ドアを開けるとまず大きな鯉の生簀があって、水面にすし詰めになって犇めく鯉に餌をやる男性従業員に挨拶をする。
 数人いる男性従業員の中でも、社長の息子とアルバイトの茶髪の男はなかなかいい男だった。
 もう一人、あたしの他に女の子が働いていて、ルミという名前だったけれど、その名前にふさわしく可愛らしい女の子だった。
 ただ、男関係にルーズなのが彼女のキズで、ルミは暇さえあればあたしに恋愛沙汰の話ばかりしてきた。
 彼女のお気に入りは茶髪の男―――岡崎という名前で、特に愛想がいいわけでもなく、どちらかと言えば気だるそうに淡々と仕事をこなすタイプだった。

 『ねぇ、岡崎さんってカノジョいるのかなぁ?』
 ルミがテーブルから下げてきた皿をシンクに並べながら呟く。あたしはそれを洗いながら、
 『…さぁ、あたしも特に深く話した事無いし、自分で訊いてみたら?』
 と笑った。ルミはふてくされた表情をして見せて、
 『他人事だと思ってぇ、あたしだって結構必死なんですけど。』
 『だって、あたしに訊かれたってわからないものはわからないよ。』

 そんなやりとりばかりで過ごす6時間。気疲れする。
 あたしがこのバイトを選んだのに理由なんてない。ただ、家から近くて、土日だけ働けて、という条件にかなっただけだ。
 今あたしはやりたい事がいっぱいある。高校二年目、進路の事も考えなきゃいけないけれど、あたしは自分が大学に通えるとは思っていなかった。
 経済的な問題ではなく、あたしの精神面での問題だ。あたしは集団の中に居るといつも疎外感を覚えるし、ちょっとだけ才能のある十代特有の思い上がり―――【自分は他人とは違う】と常々思っていた。
 だからバイト先という小さな人間関係の輪の中でも、釣りあげられた魚のような呼吸困難に陥ってしまいそうになる。いい歳した大人が、人工の池で魚を釣って喜ぶ姿を見ると胸の中が暗くなる。

 成績は良かったので、大学受験はするつもりだった。そして、何校か合格したらそのすべてを辞退するつもりでいた。
 あたしは他人とは違う。それだけは言える。
 だけど何が違っているのか、突出した才能があるのか、また、それを形にできるのかと問われれば答えに詰まる。

 もっとゆっくり考えさせてくれてもいいのに。


 毎週、あたしは土手の上から川を見下ろしながら釣り堀に向かう。
 枯草の交った緑の中に、蚊柱が立っている。
 左側に見下ろす川は緑色に淀んでいて、流れも緩く、川縁にはたくさんの腐ったごみが浮いていて臭い。時々、釣り堀から逃げ出した真鯉が悠々と泳いでいたりする。
 ちょっと早めに着いたあたしは、自転車を止めていつものように裏口から食堂へ向かう。

 その時、偶然岡崎さんが生簀の様子を見ていて、おはよう、とあたしに声をかけた。
 岡崎さんの手にはいくつかの白い錠剤がのっていて、彼はそれを水なしで一気に飲み、付け足すように、
 『これね、俺が人間でいるための薬。』
 と言って、きまり悪そうに笑った。多分、精神安定剤か何かだと思ったけれど、あたしは彼の言葉を薄笑いの会釈でごまかしてキッチンに入った。

 人間でいるための薬を飲んでいる岡崎さんと、援助交際しているルミが上手くいくはずがない。

 ルミは土日のアルバイトは岡崎さんに会いたいから続けているだけ、と言っていた。そして、それだけでは遊びに行く金にもならないので三人くらいの小金持ちと付き合っていると教えてくれたこともある。
 ユウちゃんもやらない?と誘われたけれど、その時あたしは学校に好きな人がいて、とてもじゃないけれどそう言う気にはなれなかった。

 売春が悪い事だとは思わない。彼女を否定するつもりはないし、自分が潔癖だと言うつもりもさらさらない。
 あたしの体も心も既に、すぐ傍の川のように汚らしく腐っている。無邪気に『岡崎さんが好き』と言いながら、割りきりで体を売るルミよりももっと性質が悪い。
 援助交際も売春も、とっくにその味を知っているというのに、それでもまるで無垢なふりをしてルミの話に耳を傾けている自分。
 そんな自分の汚らしさにも惨めさにも我慢できなくなりそうだった。

 そして、私も岡崎さんと同じように「人間で居るための薬」を噛み砕く。すべての嘘に目をつぶるために。
 みんな壊れかけている。

 あたしの好きな人には彼女がいる。あたしは汚れた心を抱えて悶々としながら、この生臭い釣り堀でみっともないエプロンと三角巾を身にまとって働いている。
 こんなはずじゃない。あたしはもっと色々な事が出来るはずで、あたしには何らかの才能がある。
 今はそれを見いだせないだけで、時が来ればきっと名を馳せて見せるのに。

 いつもいつもそう思っていた。学校に居る時も、家の自室で過ごす時も、バイトをしている時も。


 『ちょっと、仕事終わった後話してもいい?』
 皿を拭きながら、ルミが珍しく真剣な顔をして言うので、あたしは頷いた。

 排気ガスの臭いを帯びた生温い風が緩やかに吹く中、あたしとルミは土手を川の方へ少し降りて煙草に火を点けた。
 工場の煙で夕暮れの橙色がくすんで見えた。
 
 『どうしよう、あたし妊娠したみたい。』
 ルミはそう言って、マルボロのメンソールに立て続けに火を点けた。あたしは大方そんなところだろうと予想を立てていたから、彼女が煙草を吸っても止めはしなかった。

 『相手、誰だかわかってるの?』
 あたしがそう聞くと、彼女は深くため息をついて、わからない、と首を振った。
 『二人いて、どっちかだって事は確かなんだけど、どっちかって云われると自信が無くて…』
 菊芋とコスモスの色鮮やかな花がゆらゆらと揺れていた。
 『……堕ろすお金あんの?』
 あたしは二本目の煙草に火を点けながら尋ねた。ルミは小さな頭を傾けるように小さく頷いた。
 『じゃ、早くした方がいいよ。うちに泊まっている事にしてもいいからさ。』
 『ありがとう、でも、岡崎さんには云わないで。あの人に知られたらあたし死んじゃうかも。』

 知られようがしられまいが、あんたはこれから腹の子どもを殺すんだよ。
 あっけらかんとして、まるで虫歯を抜くような気持で堕胎して、その後をのうのうと生きていくと言うのか。

 やっぱりみんな病んでいるなぁ。
 壊れている。あたしはそう想って、煙草の火を消した。
 短い会話はそこで終わった。あたしは来週彼女が休む事を承諾し、自分の家の電話番号をメモに書いて渡した。彼女はそれを受取って、やっぱり無邪気な笑顔で、ありがとう、よろしくね、と笑った。

 人間で居るための薬を噛み砕きながら、川沿いの道を自転車を押しながらゆっくりと歩く。
 暗くなり始めた空の彼方から、かすかに遠雷が轟いてくる。


 釣り堀は、大きな川と土手を挟んですぐ隣にある。
 台風が来て川の水かさが増すと、毎年のように多くの魚が釣り堀から脱出し、本来居るべき場所である川へと戻って行く。
[2009/03/26 01:03] | 小説―midium |
*ナイフ*
 冷たい風が頬を殴るように吹きぬけて行った。
 足もとに並べたバドワイザーの缶が音を立てて転がって行く。散らばった吸殻も、屋上の片隅に追いやられて、そのまま下へと落下して行く。

 雑居ビルの屋上で、あたしは夜明けを待っている。
 だいぶ酔いの回った頭で、夜明けとともに帰ってくるであろう彼を待っている。
 総武線は少し前から運転を始めていて、電車が通過するたびにあたしの足元は地震のように揺れる。
 賃貸契約も何もせずに、勝手に棲みついた廃ビルの一部屋に、真っ赤なソファと粗大ゴミ置き場から持ってきたテーブル、ラジカセ、クーラーボックスだけを置いてあたしたちは暮らしている。
 彼がビルの所有者に毎月直接数万円の袖の下を渡す事で、辛うじて水道だけは確保されている。

 自分がこんな場所で暮らせるとは思ってもみなかった。
 最初に、彼にこの場所に連れて来られた時は夏の終わりだった。
 線路脇の、入り組んだ小路の片隅にあるコリアン・タウンの一角にあたしを連れて来た彼は、今日からここに住めるか?と尋ねた。
 あたしはそんな展開にちょっとわくわくして、もちろん、と答えた。

 彼は行きつけのクラブでよく会った男で、四度目に会った時に突然、「俺と暮らさない?」とあたしに訊いた。
 あたしは退屈な大学の授業にもうんざりしていたし、同じような日々を繰り返して二十年を無駄に過ごしてしまった事を後悔していた。
 だから、彼が「俺と暮らさない?」と訊いてきた時、迷わずに頷いたのだ。

 彼の傍は居心地が良かった。
 たとえようも無いくらい、居心地が良かった。
 夕方ふらりと出掛けて行って、何か小怪しげな仕事を終えて明け方に帰ってくる彼を待ちながら、ノイズだらけのラジオを聴き、煙草をふかしてぼんやりと過ごす。
 外の喧噪も暗い部屋に差し込む安っぽいネオンの光も何もかも、あたしには刺激的なものに思えた。
 キャンパスで皆と同じように髪の毛先をくるくると巻いて、付きあいでくだらない合コンに参加するよりも、ばっさりとうなじの所で切り揃えた髪をバサバサに乱して、ラジオから流れるグランジに陶酔していた方がよっぽど有意義に思えた。

 そしてあたしをこんな非日常へ連れ出してくれた彼は、とても魅力的な男だった。
 柔らかい茶色の髪に色白の肌と、煙草の匂いが染みついたレザージャケット。幾つも嵌めたピアスと両手の指にはめられた銀のリング。
 夏でも氷のように冷たい痩せた体、低い声。酔いが回ると甘えるようにあたしの膝に頭を載せて眠ってしまう可愛い仕草。何もかもあたしの好みだった。
 恋に落ちたと同時に、底辺に落ちてみた。だけどあたしは少しも後悔していない。
 本当に、彼の傍は居心地が良かった。

 あたしたちの暮らす部屋は雑居ビルの三階にあって、一階はとうに閉鎖した食堂、二階はその食堂の倉庫だった。
 彼は、彼の仲間たちと一緒にその倉庫に色々な物を貯めていて、仕事と言って出かける夜は必ず、その倉庫から色々なものを持ち出していた。
 彼は、あたしに、絶対に倉庫には入るなといつも言っていたし、あたしもその中に何がしまわれているか大方の検討はついていたので、彼の言う通りにした。

 東の空からだんだんと空が蒼くなっていく。
 夜中、暗闇の中で孤独と闘うのは切ない。自分が消えて居なくなってしまいそうな気持になるし、パトカーのサイレンが近くに響くと、思わず耳をふさいでしまう。

 早く帰ってきて。

 あたしは祈るような気持ちで空を見上げる。仄かに白んだ空を、からすが数羽横切って行く。
 あたしはジャケットの内ポケットからナイフを取り出す。悴んだ指先で折りたたまれた刃を開くと、シャープな銀色の光が寝不足の瞳を眩ませた。

 あの人が帰って来たら、この刃を突き付けてみよう。
 そして、あたしをもっともっと素敵な場所に、此処よりもっと酷い場所に連れ去って欲しいと彼に伝えよう。
 あたしもあなたのように落ちる所まで落ちて見たいんだ。其処から見える景色を見たいんだ。
 今の生活に満足できなくなってる。何処までも滅茶苦茶に壊れてしまいたい。

 不透明な未来が闇に変わるように。目の前を覆う霧が晴れてしまう前に。

 東雲色に染まる空を見上げながら、あたしはナイフの先でほんの少しだけ指先を切る。
 珊瑚のように膨らんだ血液の珠が、ひび割れたコンクリートに落ちる。

 彼のごつごつしたブーツが外階段を上る音が聞こえてきた。あたしは膝を抱えて座り、目を閉じて耳を澄ます。彼のウォレットチェーンがしゃらしゃらと音を立てている。
 …二階の倉庫に入って、…倉庫から出て鍵をかけ、…三階の部屋に入って、またすぐに外に出てくる足音。
 螺旋階段を上がって来る足音に、あたしは振り向かない。近づいてくる乾いた足音にも、あたしは振り向かない。
 「ユウ」
 優しい声でそう呼ばれて、あたしは少しだけ俯く。掌にはナイフ。鼓動が速くなる。
 「ユウ。ただいま。」


 あの瞬間に、この手を血塗れにするべきだった、と今更ながら悔やむ。
 あの直後あたしは抱きすくめられて、手にしたナイフも音を立てて地面に落ちた。彼はナイフの事など気にも留めない様子で、冷えきったあたしの頭を撫でて額にキスした。
 あたしはもう何が何だか分からなくなってしまって、ただ泣きじゃくっていた。
 ずっとこのままで居たかった。このまま悪い方へ悪い方へと落ちて行く、それでも良かった。
 彼と一緒にいられれば。

 けれど、その一週間後に彼はオーヴァードーズで自分の時間を止めた。
 あたしは今でも後悔する。
 彼を楽にしてあげたのがドラッグではなくあたしのナイフだったら良かったのに、と。


(この物語は「*熱帯*」、「*シメコロシノキ*」とリンクしています。)
[2009/03/25 23:29] | 小説―heavy |
*刻まれたもの*
 ひんやりとしたキッチンの床の上に寝転がって、目を閉じた。
 数日前から熱を出していたあたしは、久々に起き上がって吸った煙草に強烈な眩暈を覚え、その場にへたり込むように倒れたのだ。

 冷たい床は、火照ったあたしの体の熱を吸って次第に生温くなる。
 閉じた瞼に映る世界は闇で、その中へとゆっくり落ちて行くような、まるで柔らかい泥沼にはまっていくような心地よい感覚を覚える。
 今はもう何も要らない。身につけるものなど何一つ要らない。
 長く伸ばした髪も、体に刻んだタトゥも、何一つ必要ない、心地よい感覚。ヴァーチャルな死の世界。

 死、と想った瞬間、あたしは左手の薬指を握りしめた。
 今の時間、調理場で仕事を頑張っている朔ちゃん。病気がちなあたしでも構わないと、結婚してくれた四つ年下の朔ちゃん。
 もし、このまま本当にあたしが死んでしまうなら、朔ちゃんには『愛しているよ』と伝えたいな。
 多分死にはしないだろうけれど、こんなポーズで伝わるだろうか。

 暫くして瞼を上げると、薄曇りの空から光が射していて、一緒に住んでいるネコが私の隣に香箱を作っていた。
 あたしはゆっくりと起き上がり、長い髪に付いた埃を払う。
 人間、そう簡単に死にはしない。あたしはまだ息をして、動いている。



 慢性甲状腺炎と好中球減少症の告知を受けた時も、一瞬、死、という単語が頭をよぎったけれど、自分は丸で死ぬ気がしなかった。
 医師は、『現段階では投薬による治療法しかありませんね』とだけ告げた。
 つまり、治らない病。この苦しみは一生抱えて行かなければならない。
 それこそ、死んで楽になるまでずっと。

 あたしは病気の診断をされてから、体のあちこちにタトゥを増やし始めた。
 今までもタトゥは二、三ヶ所に入れていた。理由はひどく単純なもので、昔からタトゥに漠然と憧れを抱いていたからだ。
 そして、自分の描いた下絵をモチーフにしたタトゥで体を飾る事が好きだったからだ。
 よく、『年齢を取ったらどうするの?おばあちゃんになってもタトゥが似合うと思う?』なんて皮肉を言われるけれど、あたしはそんな事など全く気にしていない。
  何しろ、その年齢まで生きられるかすらもわからないのだ。固く腫れあがった甲状腺は、悪性リンパ腫になる可能性もあるのだから。
 そしてタトゥは、少なくとも、十年以上続けたリスカよりはずっとましな趣味だと思う。

 そんなあたしをオカシイ、変だ、と言う人々も多いだろうし、今のところ、日本でタトゥを入れている人はまだまだ珍しい存在だと思う。特に、年配者の目には触れないようにあたしなりに気を遣っている。
 母は多分、うすうす気づいていると思うが、その事については敢えて触れてこない。
いずれ時が来たら話さざるを得なくなるのかもしれないけれど、あたしとしてはこのままお互い見て見ぬふりをしていた方が互いのためにも善いのだと思う。

 タトゥの一つには、小さな文字で母親にあてたメッセージが入っている。もしも、あたしが母より先に逝く事になった時のためのものだ。


 タトゥを施されている時は、あまり痛みを感じない。あたしはやせ型だし、どう考えても痛いはずなのだが、最初の一刺しの痛みの後は、痛みらしい痛みは感じない。

 『そのおかげで彫り師としては助かるけどね。』
と、あたしの肌にインクを挿しながら彫り師のリエさんが言う。
 『ユウちゃんは動かないし騒がないし、時々寝ちゃってるし。男の子でも騒いだ挙句に逃げだす子とかいるから。』

 彼女は四十代の、それにしては四十代には見えない不思議な空気を纏った女性で、私は今までずっと彼女に自分のタトゥを入れて貰っている。

 『朔ちゃんは、ユウちゃんがタトゥ増やす事について嫌がらないの?』
 彼女は煙草に火を点けながら時々そう尋ねる。
 あたしはたまに朔ちゃんと一緒にこのタトゥスタジオを訪れるので、リエさんと朔ちゃんは顔なじみなのだ。
 もっとも、痛いのがまるでダメな彼はあたしの体に模様が彫り終えられるまでの時間を読書してすごすだけだけれども。
 朔ちゃんが唯一耐えた痛みは、彼の両耳のピアスで、付き合い始めの頃あたしが開けてあげた。

 『…ん、そろそろやめとけば、って言われてる。』あたしが笑いながら言うと、リエさんも笑いながら
 『でもやめるつもりはないんでしょ?』と言った。
 『多分、やめない。自分の体だし、自分の責任でやっているから。』

 …それで朔ちゃんがぶつぶつ文句言おうが言うまいが、あたしはあたしなのだ。
 あたしのアイデンティティにケチをつけるような男と結婚した覚えはない。

 『ま~た、そんな風に突っ張って。ユウちゃんは幸せもんだよ。朔ちゃん、ユウちゃんの事すごく大事にしてるじゃない?尊重してなきゃ普通、こういうの許してくれないと思うな。』

 そうなのかな。尊重って、よくわからない。あたしは多分、既婚を隠して平気で浮気もできるだろうし、成り行き任せで誰かと寝ちゃう事だって容易くやってのけるだろう。
 ほんのちょっとの罪悪感はあるかもしれないけれど、自分自身も楽しみながら。そんないい加減な女なのだ。

 自由で居たい。一年の半分以上を病に悩まされて、他人より薄命であるのならせめて、自由で居たい。結婚していたって、それは関係ない。あたしはあたしのものだ。
 そのために、浮気やタトゥや、自分の望む事をして、何が悪いの?

 だから今一つぴんと来ない。『愛』と言う言葉で縛られた関係の中に、幸福があるだなんて。



 だけど今日、冷たい床の上で死を想った時に真っ先に出てきた想いは、愛、という肉をあらかたそぎ落としたひどく単純な答えだった。
 幾ら突っ張って見せても、何もかも要らない境地に立たされた時に想うのは朔ちゃんの事だけだった。

 ちょっとだけ失望したような、妙な気分に陥ったあたしは、布団に戻って眠りに落ちた。
 長閑な春の午後だった。
[2009/03/25 05:09] | 小説―light |
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*My Blue Heaven*


私の記憶の中から、思い出せる限りの事を『小説・文学』カテゴリに。   私の現在を、『ブログ』カテゴリに。

プロフィール

遊

Author:遊
Name:百瀬 遊(Yu Momose)
Birthday:01/28
Blood type: B
Sex:F

●がタイトルにつく場合ブログ、
*がタイトルにつく場合が小説です。

◆初期小説は、書き下ろしのノンフィクションを載せています。
※カテゴリ別に読んで頂ければ、多少なりわかりやすく表示されると思います。
※表記の多い、自傷、ドラッグ、売春はすでに卒業しています。
ドラッグと売春は犯罪ですので、(今更ですが)やっちゃダメな事です。
自傷は犯罪じゃないみたいですが、周りの人が痛いのであまりお勧めできません。
◆09年8月以降、フィクションを増やしていく予定です。
ノンフィクションの場合は題名に表記します。

※著作権・肖像権の侵害、あるいは転載などは禁止とさせていただきますので、よろしくお願いします。

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